すぐ近くに我が家があるというのに、そこに近付くことができない。
呆然と土の上に座り込んで、わたしは動くことができなかった。

青天の霹靂とは、このことを言うのかもしれない。



その日は久しぶりの晴天で、ぽかぽかと暖かい日差しに誘われて庭の小川に行き、花を摘んできた。
我が家の庭は、小さな小川と池が配置されていて、その周囲には、色とりどりの花々が植えられている。
レンガの歩道を歩けば、季節ごとの花を楽しむことができる。

この小川は、こうした小川を庭に配置したスタイルが貴族たちの間で大流行した当時、母がどうしても欲しいと言ったため、人工的に作ったものだ。
わたしは幼かったが、あれが欲しいこれが欲しいとあまり言わない母が、珍しく強固に主張していたのを覚えている。
その勢いに負け、父は渋りながらも、ついに首を縦に振った。

庭師を呼ぶお金がなかったので、父がせっせと作業し、何カ月もかけてやっと完成した。
「石の形が」「小川の幅が」とぶつぶつ言っていた母だが、文句を言いながらも嬉しそうだった。
わたしも手伝いをした気ではいたが、いま思い出すと、姉たちと一緒に周囲を走り回っているだけだったような気もする。

家に残っている娘はわたし一人になってしまったが、ここに来るたびに、みんなで笑い合った子ども時代を思い出す。
誰とも結婚できなくて、みじめな気持ちになっても、自分は幸せに育ったんだと思うことで、自分を立て直すことができる。
きっと、母にとってもここは特別な場所なのだろう。
姿が見えないと思うと、いつもこの庭にいて、せっせと花の手入れをしている。

この小川は、わたしたち家族の幸せの象徴のようなものなのかもしれない。


日が高くなってからは、強くなった日差しを避けて室内で過ごした。

姉たちは独身の頃、こういうときはいつも街へドレスや帽子を見に行っていた。
しかし、お金がないので見るだけだったらしい。
あれが欲しいこれが欲しいと言いながら「お金があればあれが買えるのに。」とよく言っていた。

わたしはと言えば、姉たちとは違い家でゆっくりするのが好きだ。
もちろん、きれいなドレスや帽子を見るのは楽しい。
でも、欲しいものが手に入らないと悔しいので、それなら最初から欲しいと思いたくないので、見にも行かない。

きゃあきゃあとおしゃべりする姉たちの声が届かないところを探して、本を片手に父の書斎へ逃げ込むことが頻繁だった。
午後は書斎で過ごす習慣のある父は、わたしが書斎に現れても、ちらりと視線を向けるだけでなにも言わずに受け入れてくれた。

互いに一言も話さない、静かな空間。
それは、姉たちがいなくなった今でも変わらない。

いつも通り、父の書斎で、父と一緒に読書をしていた。

そんなときだった。

「あなたっ!」
母が甲高く叫びながら、書斎に扉を勢いよく開けた。
彼女は扉を開けたまま、あうあうと喉から呻き声を絞り出すが、言葉にならない様子だった。

初めは、なにが起こったのか分からずに、本から顔を上げた姿勢のまま、ぽかんと口を開けて、父と顔を見合わせた。

父は読みかけの本にしおりを挟み、机の上に置いてから、立ち上がった。
「おいおい、どうし‥‥。」
父が母に歩み寄ろうとしたとき、ドタドタと、硬い靴が廊下を踏む、複数の足音がした。
男性の、荒い足音だ。

「ひっ」と母が顔を真っ青にして、父は慌てて母を抱き寄せた。

「お邪魔しますよぉ。」
割れた大声とともに、男たちが扉の向こうに姿を現した。
父と母越しに見えたその姿は、明らかに荒事に慣れた様子の大男だった。
むき出しの鍛えられた太い二の腕には、無数の傷が見える。
武器は持っていないように見えるが、素手でも十分に威力があるだろう。

平和な我が家に、似つかわしくない荒くれ者たちがいる光景が、非現実的すぎて、頭がついていかない。
わたしも椅子から立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。

「お前たちは誰だっ!勝手に入ってくるとはどういうことだ!」
父が怒鳴るが、男たちはひるまなかった。
それどころか、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべている。

「勝手にここに居座ってるはあなたがたのほうでしょう。いったい、誰の許可を得てこの屋敷を使用しているんで?」

男性にしては少し甘ったるい鼻声とともに、男たちの後ろから、中年の男が前に出てきた。
その男は、貴族の一般的な服装をしていて、先にいた荒くれたちとは一線を画していた。
しかし、どこか退廃の匂いのする男で、白目は濁り、顔の肉は垂れている。
パーツパーツは整った形をしているので、もしかすると若い頃は女性にもてはやされたのかもしれないが、長年の生活習慣によって崩れた顔が、余計に男を醜悪に見せていた。

「どういう意味だ。誰だね、きみは。」
父の質問に、男は鼻を鳴らし、パルクスと名乗った。
馬鹿にしたような、わざとらしい大仰な仕草。
わたしは初対面で、すぐにこのパルクスを嫌悪した。

パルクスの名をわたしは知らなかったが、父は記憶を探り、一つの答えを見つけたようだ。
ぐっとあごを引いて、パルクスを見据えた。

「それで、パルクスさん。記憶では、初対面だったと思うが。一体なんの目的で、こんな無礼なことをするのかね。」

「無礼ですと!無礼ですと!?」
ヒャハハ、と突然甲高い声を出すパルクス。
「目的はもうお伝えしたでしょう。その耳は飾りですか。あなたがたにここに住む権利はないんです!今すぐ、立ち退きをしてもらいます!」
なぜかハイになり、引きつった笑いを浮かべ唾を飛ばしてしゃべる様子は常軌を逸していて、なんだか怖い。

「なにを言って‥‥。」
若干引き気味の父の言葉をさえぎり、パルクスが懐から何かを出した。
大切そうに、筒に入れられた紙を取り出した。
「証文ならこの通ぉーり。」と巻物が広げられ、そこにはクレドルーの屋敷と土地の権利を移譲すること、そして兄のサインと拇印があった。

「まさかっ!」
よく見ようと父が一歩文書に近付くと「おっと」と言ってパルクスがその証文を巻いて隠した。

「これで分かったでしょう。このクレドルーの土地は、わたしのもの!クヒヒッ」
「どういうことだ!なぜ息子が!?」
「おや、ご存知ないんですか?あぁ、そりゃあ言えませんよねぇ、あんなこと。」
パルクスは手で自分の口を塞ぎ、キョロキョロと周囲を見回して、言ってはいけないことを言ったかのような演技をした。
「あんなこととはなんだね!?」
ひらひらと手を振りながら「本人に聞いてくださいな。」とふざけるパルクス。
「息子がサインするはずがない!そのサインと拇印が本物かどうか分からないじゃないか!」
「本物ですよ。でもあなたが信じるかどうかなんて関係ありませんがねぇ。だって、本物なんですから、ね。これ以上お話することは、あ・り・ま・せ・ん。ほら、出てった出てった。」

大勢のガタイの良い男たちが動き、わたしたちの腕を左右からがっちりとつかんで、外へ引きずって行った。

「こんなことは許されんぞ!」
叫ぶ父に、
「あぁ、お疑いなら出るところに出ましょう。」
返された言葉を背後に、わたしたちは外へと放り出されたのだった。

地面に投げ出された父は、すぐさま起き上がり、屋敷へ走り出した。
しかし、男たちに阻まれた。
拘束を振り切ろうと抵抗していた父が、殴り倒されたのを遠目に見て、わたしと母は息を呑んだ。

さらに地に伏せた父のわき腹を、男が強く踏みつけた。
男が少し屈んで、父になにか声をかけた。
なにを言っているのか、ここまで声は届かなかったが、父はその言葉を聞いて、がっくりと力を失った。



それからわたしたち家族は、嫁いだ姉のところで世話になることになった。

父は、最初は姉に本当のことを言わなかった。
「突然どうしたの?」と驚く姉に、父は「ちょっとな。」とごまかした。
「すぐに解決するから、余計なことは言うな。」とわたしと母に言い置いて、兄のいる軍の官舎へと向かった。
帰ってきた父は、背を丸め、なにも語らなかった。
母だけは、父から兄のことを聞いているのかもしれない。
わたしにはなにも教えてくれなかった。

ただ父は「こんなことなら、お前の縁談を早くまとめておけばよかった。」とポツリとこぼした。
こんな状況では、縁談は望めそうもない。
以前のわたしは、もし縁談がなかったらいずれ結婚してクレドルーを継ぐ兄のお世話になろう、と考えていた。
それがどれだけ浅はかだったことか。
兄に子どもが生まれたら邪魔者扱いされるかも、と心配していたことは、すべて意味のないことだった。
前提としていたものがすべて崩れ、自分の足元が一気に崩れ落ちたかのようだ。

いつまでも屋敷に滞在するわたしたちに、最初は歓迎していた姉夫婦も、不審そうな顔をするようになった。
夕食の席で姉の夫に質問され、いよいよごまかすことのできなくなった父は「お恥ずかしながら‥‥。」と、これまでのことを告白した。
どうやら、あの証文は、本当に兄が書いたものだったようだ。

「兄さんがサインしたところで、あのお屋敷は父さんのものでしょう?勝手に譲るなんて、できないんじゃないの?」
姉の疑問ももっともだ。
わたしも同じ疑問を持って父を見ると、父が重い口を開いた。

クレドルーは、もともと父の所有ではなかった。
父の姉、伯母が相続したもので、住まわせてもらっていたのだという。
伯母が独身のまま亡くなり相続人がいなかったため、兄が20歳になったときに相続することになっているが、現在は権利が宙に浮いている状況なのだそうだ。

「伯母さまが亡くなったら、お義父さんが相続人になるものではないのですか?」
姉の夫が口を挟んだ。
父は言いにくそうに「わたしと弟は、わたしの父によって、相続権をはく奪されているのだ。」と言った。
すべて、初めて聞くことばかりだ。

父方の親戚の話は聞いたことがなかったが、これまで不思議に思ったことは一度もなかった。
ただ単に親交がないだけなのかと思っていたのだ。
それが、父の弟はクレドルーの南に住み、しかも絶縁状態だと言うから驚きだ。
「南の森には決して近付くなと。」と幼い頃から厳しく言われていたのは、その森がこちら側とあちら側の境目だからという理由からだったそうだ。

姉は、夫の顔をちらりと見て、それきり黙りこんだ。


数日後、わたしたちは部屋を移ることになった。
日当たりのいい広い部屋から、日の当らない狭い部屋へ。
「ごめんなさい、でも、お客さんを泊めることになって、あの一番の部屋を使ってもらいたくて‥‥。」
姉は申し訳なさそうに言ったが、父に「もういい。」とさえぎられて、逃げるように去って行った。
同時に、食事も以前は食堂で一緒にとっていたのが、部屋に運ばれるようになった。

客人が来るから、という理由だったが、客人が帰ってからも、待遇は元には戻らなかった。

居候の身分でぜいたくは言えない。
父も母も、なにも文句を言わなかった。
それでも、なにも感じない訳ではない。
ふと見た背中が以前よりも小さく感じて、まるでこのまま消えてしまうんじゃないかと不安を覚えた。
父は、クレドルーを取り戻すために、知り合いの伝手を頼って、協力してくれる人を探していた。

しかしそれも、諦めざるを得なくなった。
醜聞を嫌った姉の夫が、いい顔をしなかったのだ。

「お義父さん、あまり外に出ていただいては‥‥。なんと噂されるか分かりませんし‥‥。」
わたしは姉に抗議しようとしたが、父が止めた。
「娘たちに迷惑をかける訳にはいかない。」と言って、父はほとんど外出しなくなり、部屋にこもるようになった。
母も以前はよく笑う人だったのに、段々と無口になっていった。

クレドルーを失ったことよりも、それが悲しかった。

 

 

 

 

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 最終更新日 2016/01/31

 最終更新日 2016/12/25