ぼんやりと馬を進めていると、後ろから蹄の音が聞こえた。
「話し合おう。きみは、このまま逃げるべきではない。」
夫の声が、他人のものに聞こえる。
逃げる「べきではない」。
浮気に怒る「べきではない」。
伯爵夫人として。
そんな話はもうたくさん。
夫が追ってくることを期待して、わたしはわざとゆっくり進んでいたのだ。
笑ってしまう。
わたしは馬をおりた。
同じく馬をおりた夫が、近付いてきた。
顔を上げたわたしを、夫は力強く抱きしめ、深く口付けした。
わたしは暴れ、夫の腕を振りほどく。
「話し合おう、って言ったじゃない!」
わたしは叫んだ。
「あなたはいつもそうだわ。身体を使って、話をごまかして、それでおしまい!なんの話し合いにもならないっ!」
わたしの剣幕に、夫は静かな瞳を返した。
しかし、よく見れば、その瞳の奥が熱く燃えているのが分かる。
「これからは、きみと話し合って、きみの望むようにするから。お願いだから、戻ってくれ。そうしないと、僕はどうしたらいいか分からない。」
プライドの高いこの人が折れるのは、どのくらの屈辱だろう。
しかし、これまでのわたしへの仕打ちには釣り合わない。
心の中で、口だけ男、と罵った。
浮気は彼の性格の一部だ。話し合ったところでなおるものでもない。
それに、そんなに簡単になおせるなら、もっと早くすれば良かったのだ。
「戻りたくないのよ。あなたが心を入れ替えたところで、あの屋敷は変わらない。あそこに、わたしの居場所はない。」
もう、疲れてしまった。
またあの針の筵に戻るには、わたしの心がすり減り過ぎている。
ボロボロとなみだが落ちた。
腕を引かれたが、わたしの足は動かなかった。
動こうとしないわたしに焦れたのか、夫が強く腕を引いた。
「離してっ!」
振りほどこうとしたが、夫の手は緩まなかった。
引きずられるようにして進むと、突然、夫の足がぴたりと止まった。
「うちのお嬢様を離していただけませんかね。」
剣の先が夫の喉元に突きつけられた。
父の侍従が、横から剣を向けている。
「やめて!」
なぜここにいるのだろう。
帰ったんじゃなかったのか。
夫はまずわたしの顔を見て、知り合いだと察したのだろう。
腕を離した。
突きつけられた剣をちらりと見てから、あごをくいと上げて尊大に男に言い返した。
「夫婦の問題だ。外野が口を出すな。」
「夫婦の問題だとしても。お嬢様に関係することでしたら、俺にも関係ありますよ。」
ちらり、と夫がわたしに視線を向けたが、すぐに男に目を戻した。
「うちの母が、常々お嬢様のことを我が娘と呼んでるんでね。まぁ、そういう関係です。」
男がうそぶく。
挑発に乗る伯爵ではないが、心中穏やかではないようだ。
一瞬、間があいた。
「まさか。彼女は僕しか男を知らない。」
男は、ふっと笑った。
「なにを誤解していらっしゃるんだか。そうやって慢心していらっしゃるから、目の前の女の心も見えないんですよ。」
わたしと父の侍従は、並んで道を進んでいた。
わたしは伯爵の乗ってきた馬を奪い、代わりにわたしの乗ってきた裸馬を、父の侍従が乗っている。
男が伯爵に剣を突きつけたまま「伯爵の馬に乗ってください!」というので「え、えぇ。」と戸惑いながら乗ってしまった。
たしかに屋敷には戻りたくなかったが、この状況は非常にまずい。
間男と逃げ出す人妻の図だ。
男の助けがなければ伯爵から逃げられなかったとはいえ、余計なことをしてくれたものだ。
考え付く限り、最悪の逃げ出し方だ。
はぁ、と大きくため息をついて、男に話しかけた。
「わたし、使用人の女の子を髪を引っつかんで揺さぶったのよ。頭がおかしくなったのかしら。」
予想外に、男が噴き出した。
あはは、と明るく笑いながら、
「それだけで済んで良かったんじゃないですか。お嬢様は、昔から気が強かったですからね。俺なんて何度も噛まれましたよ。」
と言ってくれたのが、この状況で唯一の救いだった。
すべて壊してしまった。
使用人の信頼も、夫の信頼も。
そして、伯爵夫人としての立場も。
これまで築いてきた、すべてを。